呉氏太極拳とは

諸説ありますが、ここでは私、高小飛が老師、諸先輩より聞いたものをお話しします。

現在私たちが研究している太極拳は楊露禅が北京に入ってからできたものと考えられます。

楊露禅は北京に入る前は河南省温県陳家溝の陳長興に武術を学びました。陳長興は当時、大武術家として有名でした。

 

楊露禅は陳長興に憧れて陳家溝に入りました。そこで大いに苦労、工夫して陳長興に気に入られ武術を習得したエピソードが伝えられています。

その後、楊露禅は故郷に戻りましたが、一説によると、そこで試合をして相手に大きな怪我を負わせたか殺害してしまい故郷にいる事ができなくなり北京に出たと言われています。

当時の北京は清朝の大都会です。清朝は満民族が支配していました。

皇帝の他に様々な王が存在しており、北京に王府を構えていました。王達は武術を好んでいましたので、漢民族の文化の中でも武術を好んでいたようです。

そこで武術家を北京に集めました。また北京には武術家のスポンサーとなる人々も存在していましたので楊露禅も北京に入って大分助けられたようです。

友人の紹介によって神機営にも武術を教えていたようです。神機営は皇帝や紫禁城を護る軍隊で満民族で構成されていました。

当初「綿拳」という名で武術を教えていました。「綿拳」とは柔らかい武術という意味だったようです。

楊露禅のスポンサーであり友人の一人に武禹襄という人がいました。武禹襄は名家の出であり、文人墨客として有名な人でした。

武禹襄は王宗岳の太極拳論を入手し、楊露禅との研究によって「綿拳」と呼ばれていた武術を「太極拳」と名付けて今日まで伝えられています。

 

楊露禅の教えていた神機営は全て満民族で構成されており、この中に万春、凌山、全佑という3人の弟子がいました。

この中の全佑は剛と柔を兼ね備えた優れた人物でしたので楊露禅の弟子の中で代表する人物になりました。

他には楊露禅の息子の健候と班候が大武術家として名声を得ました。

後に全佑は一門を開き多くの弟子を持ちました。全佑は満民族でしたので姓がありませんでしたが、後に呉全佑と名乗りました。

 

弟子達は全佑を大変尊敬していたので呉氏太極拳と名付けました。全佑の弟子には息子の呉鑑泉と王茂斎の他にもいましたが王茂斎と呉鑑泉は呉氏太極拳の普及に尽力しました。

 

王茂斎は多くの武術家と交流して研究工夫をしたそうです。北京は様々な門派の高手がせめぎあう武術のメッカでしたので、呉氏太極拳の名が世に知れることに大きく寄与したそうです。

北京で有名となり普及が始まりましたが、呉鑑泉は上海の有力者に請われて上海でも教授しました。そのおかげで呉氏太極拳は北京と上海で普及しました。王茂斎が伝えた太極拳は北派、呉鑑泉が伝えた太極拳は南派と呼ばれましたので当時は北王南呉と呼ばれた時代でした。両名とも大武術家として多くの弟子を育てました。

北派と南派は特徴が異なりますが、同じ流派として今日まで伝えられています。

 

上海では呉鑑泉の娘の呉英華とその婿、馬岳梁が名を挙げましたので、今日この二人の弟子、孫弟子、曾孫弟子が活躍しています。

 

北京では王茂斎以外の全佑の弟子達が名人として輩出されました。王茂斎の弟子の代表には楊禹廷が居り、王茂斎の道場では楊禹廷が武術を教授していました。

楊禹廷は北京の呉氏太極拳の代表として知られていました。

 

私の師である王培生先生は楊禹廷先生に13歳で入門しました。王培生先生が17歳の時に、確か楊という人が道場破りの目的でやってきました。

楊氏はそこで門人と推手を行い、楊禹廷先生以外の門人を破っていきましたが最後に王培生先生が立ち会ってこの楊氏を倒しました。

楊氏は翌日もやってきて挑戦しましたが、王培生先生は更に相手を気絶させるところまで倒して二度と挑戦できないようにしました。

この事件を知った王茂斎先生は王培生先生を大変気に入り、孫弟子として「この子は私が直接教えよう」と楊禹廷先生に告げました。

その後、王培生先生は王茂斎先生が亡くなるまで直接太極拳を学ぶことができました。

それにより王培生先生は太極拳の推手を極めたようです。

 

王茂斎先生没後には楊禹廷先生の道場の第一の指導員として楊禹廷先生の代わりに太極拳を教えるようになりました。

楊禹廷先生に入門していた沢山の弟子も王培生先生に習った人が少なくなく王培生先生は名人としての評価が上がりました。

毎日大勢の人と推手を行い太極推手を極め、北京で名人と呼ばれるようになりました。

楊禹廷先生没後、王培生先生は自然と北京呉氏太極拳の掌門人となりました。掌門人とは一門派を代表し掌握している人を言います。

 

ここまでが北京の呉氏太極拳の歴史になります。

 


王培生先師について

王培生老師(1919年~2004年)は、時代を代表する武学宗師であり、呉氏太極拳第4代掌門人です。

幼少より武術を好み、張玉蓮に拝師して査拳(回教門の弾腿)を学び、馬貴に拝師して八卦掌を学び、13歳のとき楊禹廷に拝師して呉氏太極拳を学んで、太極推手及び各種武器に精通しました。王培生老師は子供の頃から聡明で抜群に体力があり、武術に熱中されました。そして王茂斎師祖に非常に可愛がられ、呉氏太極拳の精髄を受け継いで一代宗師となったのです。

 

王培生老師は生涯を通じて謙虚で慎み深く、決して他人の是非について語ることはなさりませんでした。温和で風格があり、人をして粛然として尊敬の念を抱かせました。これは武術家の中にあっては得難いことでした。そして、眼光は鋭く生き生きとしており、語るときは澄みきってよく通る声でした。

 

王培生老師が強調されたことのひとつは、「理論と実践は互いに結びついている」ということです。即ち、理論と実践はお互いに表裏の関係にあり、理論は実践の中で証明することができ、すべての技は完全かつ優れた理論を基礎としているということです。老師が武術の説明をするときは、太極理論にぴったり一致して技を使ってみせました。繰り出す技はのびのびとして軽やかで、老師の招法を実際に観た人は、誰もが驚き讃嘆したものです。

 

また王培生老師は、先人の技を継承していく中で新しい発見をしました。「神意不同処」の概念は、まさしく王老師がまとめられたもので、それゆえ老師は世の人々に「一代武学宗師」と称されたのです。

 

                                                                  高小飛